1945年7月28日、広島県呉軍港はアメリカ第三艦隊艦載機による空襲を受け、日本海軍の残存艦艇はほぼ壊滅した。この攻撃には沖縄からマッカーサー大将指揮下のアメリカ極東空軍B24爆撃機も参加、戦艦榛名に対して爆撃を行った。この攻撃で被弾した
B24#44−40716タロア(Joseph Dubinski中尉操縦)と同じく
B24#44−40743ロンサムレディー(Thomas C.Cartwright少尉操縦)は広島県内と山口県内に墜落、あわせて9名が捕虜となり、広島市内中心部にあった中国憲兵隊司令部に連行された。また、空母ワスプ所属のカーチスSB2C爆撃機の2搭乗員、空母タイコンデロガ所属カーチスSB2C爆撃機(SB2C#21079)に搭乗していたPorter中尉、Brisset三等無線曹、空母ランドルフ所属グラマンF6F戦闘機パイロットHantshel少尉(7月25日山口県上関攻撃で被弾不時着水)も中国憲兵隊司令部に押送された。陸軍参謀本部情報部英米班は、5月拘束された敵陸軍パイロットについては情報価値あるもののみ、敵海軍パイロットについては全員を参謀本部に送致するように示達しており、中国憲兵隊では、この指示にしたがって、B24ロンサムレディー機長のCartwright少尉、空母タイコンデロガの2搭乗員を30日東京に連行した。
翌週東京に連行されるこになっていた3人の海軍搭乗員と8人のB24搭乗員は、中国憲兵隊司令部拘禁所に入りきらなかったため、広島城内の旧広島第十一歩兵聯隊におかれた第一歩兵補充隊拘禁所にも収容されていた。
1945年8月6日史上初の原子爆弾が広島に投下され、これら11名のアメリカ人も被爆、かろうじて、Brissette無線曹とNeal二等軍曹だけが瀕死の状態で路上に倒れているのを発見され、広島憲兵分隊により比較的被害の小さかった宇品地区の陸軍船舶輸送司令部(暁部隊)に転送された。二人は8月14日鳥取県浜田市で拘束され、東京に護送される途中広島に滞在していたB29#42−63512ニップクリッパー搭乗員たちによる看護を受けていたが、8月18日容態が悪化、19日それぞれ死亡した。